韓国ドラマサンド!サンオクは郭山郡守後はどうしたのか?原作『商道』下巻だけにある松伊との純愛と戒盈杯の謎

韓国ドラマサンドはサンオクが郭山郡守になった絶頂期で終わっていますが、原作『商道』下巻はその後の晩年の事が中心に書かれています。従ってドラマと共通するストーリーはほとんどありません。下巻の主なストーリーは二つです。①サンオクと松伊(ソニ)の純愛 ②戒盈杯(ケヨンぺ)の謎と石崇和尚の正体

韓国ドラマサンドは史実に残るサンオクの精神を生かした優れた歴史ドラマですが、原作『商道』下巻は第2の韓国ドラマサンドとも言うべき内容です。サンオクと30歳位年下の松伊との純愛は年齢差を超えた恋愛として現代にも通ずるものがあります。イ・ビョンフン監督にぜひ下巻を題材にした第2の韓国ドラマサンドを作って欲しいものです。

サンオクと松伊の因縁の愛ーその1

郭山郡守になったサンオクは巡撫史(王名を受けた特使)を迎える宴会の席で初めて官婢の松伊と出会います。松伊は20歳の際立って目立つ美人でありましたが、サンオクは間違いなく初対面であったのにもかかわらず、ずっと前から顔見知りであったかのような親しみを覚えました。

サンオクは松伊が官婢になった経緯と両親のことを調べ上げ、ついに松伊の父は洪景来とともに乱を起こした李禧著(イ・ヒジョ)で母は孫福実(ソン・ボクシル)であることを突き止めます。李禧著とはサンオクが若き日、燕京への途中の山海関でサンオクが「朝鮮で最高の金持ちになりたい」と言った時、李禧著は「天下第一王」になりたいと大逆の夢を語りあった親友であり。また、洪景来の乱後はサンオクが処刑された李禧著の亡骸を引き取って、革命軍が兵を挙げた大寧江の中の薪島に葬ったのでした。

サンオクは松伊を自由の身にする方法として、自分の側室にすることを選びます。しかし松伊は石崇和尚が予言したとおり、絶頂期のサンオクを墜落させた原因であり、郭山郡守の地位から一夜にして獄に捕らえられる囚人に転落させた決定的な役割をした魔物でもありました。

サンオクと松伊の因縁の愛ーその2

サンオクは一夜にして官位を剥奪されただけでなく、官職を解かれて監獄に閉じ込められらましたが、原作では李朝末期の歴史学者、文一平(ムン・イルピョン)の説明がこう書かれています。「林尚沃が累卵の危機に陥ったのは、その邸宅が分不相応な邸宅の僭濫(身の程をわきまえない行動)だったため」。

しかし、更に原作では側近の朴鐘一(パク・ジョンイル)にこう説明させています。「大妃の実母さえ奴婢としたというのに、大逆罪人の娘を側室とし、免賤させ、良民とするとは、驚天動地の行動というほかありません、旦那様が獄に捕らえられたのは。まさに松伊のせいなのです」。邸宅の僭濫はあくまで表向きの公的な理由で松伊の件が本当の理由なのだろうと思われます。

1年間監禁された後の1837年、サンオクは義州を発ち、夢にも忘れることのなかった松伊に会うために郭山に向かいます。サンオクは松伊を大寧江の李禧著の墓へ連れて行き、松伊に「お前の父は李禧著、母は孫福実」と松伊が生まれた経緯を始めて明かしたのです。サンオクは「松伊を心から慈しむには、一刀のもとに縁を切ることで彼女を自由にすることだ」と考え、彼は再び松伊に会うために郭山を訪れることはなかったといいます。それは松伊も同じでした、彼女も数か月後、家を整理し、遠くへ旅立ったそうです。

4年後にサンオクが会った松伊は天主教徒になっていました。やがて天主教信者ということで逮捕され刑場の露と消えたのでした。その時、原作ではサンオクは夢を見ます、「コウノトリの群れが力を合わせて天の国に行っている、まさに松伊であった。彼女は既に松伊と呼ばれた女とは全く関係のない別個の仙女であり天使であった」。

サンオクの戒盈杯の追跡ーその1

下巻の第1章である第14章は伝説の杯であるサンオクの戒盈杯を調べるため筆者が仁寺洞の骨董店を訪ねるところから始まります。そこで筆者は店主の朴在正(パク・チェジョン)から欠けた戒盈杯は京畿道広州郡一帯にあった司饗院(宮中の食事に関することを司った官庁)で作られた杯であることを知らされます。

筆者は金起燮会長の自動車工場の宿舎で見た戒盈杯に彫られた「戒盈祈願 興爾同死」の8字、すなわち、「なみなみと満たして飲まぬことを願い、君とともに死なんことを願う」という内容の文字を通して、この杯が林尚沃の有名な戒盈杯だとの確信を持つに至ったと書いています。

筆者は、ドラマにあるように石崇和尚が予言したようにサンオクは第一の危機を「死」という文字によって抜け出し、次に「鼎」という文字で洪景来の乱を逃れたが、戒盈杯はいかにして三番目の危機から彼を救ったのだろうかと考え、戒盈杯を調べることから始めたと書いています。

サンオクの戒盈杯の追跡ーその2

1836年、サンオクは1年を満たずして流刑から解かれた後、京畿道広州地方へ戒盈杯の成り立ちを知るために旅立ちました。そこでサンオクは陶工である池順英(チ・スンヨン)老人に会い、戒盈杯を作ったのは禹明玉であることを確認出来たのです。禹明玉が池老人のもとで戒盈杯を作る時までは、実は70年に及ぶ歳月が流れていました。その間の複雑のな禹明玉の人生流転は、実は戒盈杯が作られる背景として実は重要なことなのですが、ここでは省略します。

禹明玉は、全てのものを味わった。酒と女、そして快楽と名誉、所有と執着、愛欲と虚無、その全てのものを短い間に全て味わった。戒盈杯。禹明玉は自分が作る器の名をあらかじめ決めていました。その器の名は「なみなみと満たすことを警戒する杯」という意味を持った戒盈杯でした。

池老人は禹明玉が作った戒盈杯がなみなみと酒を注ぐとすべての酒が消えてしまい、適度に注げば注がれた酒はちゃんと残る神器であることに驚きます。禹明玉は自分の作った神器・戒盈杯一つだけ持って忽然と消えてしまいます。これで、サンオクはどうして石崇和尚が、自分に最後の危機を退ける秘器として戒盈杯を授けてくれたのかというその謎が解けたのでした。

石崇和尚の前世

まだ、すべての秘密が明らかになったのではない。サンオクはどうして戒盈杯が石崇和尚の手に渡ったのかを知るために、金剛山(現在北朝鮮にあるものとは別)の石崇和尚を訪ねます。そこでサンオクはかつて文字を習った法天和尚から石崇和尚は二か月前に入寂したことを知ります。

そこでサンオクは石崇和尚の俗名と何で、何をしていた人かを法天和尚に尋ねます。法天和尚は教えてくれなかったが、サンオクは悟ったのでした。石崇和尚はまさに戒盈杯を作った禹明玉その人であると。彼が欲望の限界を現して見せる戒盈杯を作り上げた後、池老人のもとを去り、消えて行ったのは、自分の俗名・禹明玉を捨てて石崇という新しい名を得るためだったのだと。

サンオクは石崇和尚が入寂する直前に残した辞世の書を見ることが出来ました。その禅筆を見た瞬間サンオクは確信を持つことが出来ました。戒盈杯に刻まれた文字と辞世の書に書かれた文章の筆跡とがまさに一致していたのです。

サンオクは自分が思った通り禹明玉が、まさに石崇和尚であったという事実が感慨深かっただけでなく、神器・戒盈杯で自分を危機から救ってくれた石崇和尚への恩で感慨無量だったのでした。

商業之道

下巻の最終章は「商業之道」ですが、これはサンオクが若き日燕京に行った時以来、親しくしていた能書家で実学者の金正喜(号は秋史、阮堂。)が互いに晩年になって、金がサンオクのために書き送った風景画のタイトルです。

この章の前には、この風景画が日本にあることを筆者が確認するために来日したことが記されています。それは稀代の林尚沃遺品収集家、金起燮会長の生前からの願いでもありました。1940年まで京城帝国大学に居た藤塚教授はソウルに居た時、阮堂研究家として有名な学者だった人です。

この風景画の探索は金起燮会長が亡くなってからも続き、ついに藤塚教授の一人息子である藤塚清二郎氏から、阮堂先生が稼圃に献詞された『稼圃是賞』という題号の入った遺品が一点が発見されましたとのメッセージが届いたのでした。

最終章では2000年11月、金起燮会長を記念する「如水記念館」の開館式の模様が記されています。そこには戒盈杯と「商業之道」の絵も飾られていたことはもちろんです。「商業之道」を観た筆者は書いてます、サンオクのために描いた秋史最後の遺作「商業之道」は果たして傑作中の傑作であった。

庭で野菜を育ててる老人、すなわちサンオクを主人公とする絵の後ろには、題跋が付け加えられていた。その一部では、「彼は生涯財物を集めたが、物に執着せず、実は何もしない人であった。彼は生涯黄金を蓄えたが、これは野菜を育てたことにすぎないことであり、彼を”野菜を育てる老人″と呼ぶべきであろう」秋史の跋文はこのように終わりを結んでいる。「老家老人書」。

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