韓国留学中、一枚のビザと、教室で知った両国の歴史

留学を考える時、意外と見落とされがちなのが、ビザや出入国管理の手続きです。今回は、私自身が経験したビザ取得の思い出と現在の制度、そして授業を通して知った、韓国と日本の歴史のこぼれ話をまとめてみます。

それらの韓国と日本の歴史に関する逸話は、先生の授業の脱線話として語られたもので、シニア留学生としては初めて聞く話で、興味深いものでした。

韓国留学時、高麗大からの入学許可証と大使館での手続き

私が留学した当時、高麗大学校から留学許可のような書類が郵送で届きました。それを持って韓国大使館へ行き、1年間の滞留許可(ビザ)をもらったのを覚えています。

手続き自体は、思っていたよりも淡々と進んだ記憶があります。窓口で書類を提出し、しばらく待って、パスポートにビザが貼られて戻ってきました。

それだけのことでしたが、その一枚のビザが、これから始まる1年間の留学生活への入り口になるのだと思うと、不思議な感慨がありました。

【現在との違い】今のビザ・在留手続き

私が留学した当時と比べて、今は制度がかなり整理され、名称もはっきりしています。

ビザの種類
正規の大学・大学院・専門学校に進学する場合は「D-2(留学)ビザ」、語学堂などでの語学研修が目的の場合は「D-4(一般研修)ビザ」と、目的別に分かれています。私の場合は正規課程への留学だったので、今で言うD-2ビザに近い扱いだったと思われます。

申請の流れ
基本的な流れは、今も昔もそう大きくは変わりません。まず学校から入学許可書(標準入学許可書)を受け取り、それを持って日本国内の韓国大使館・総領事館でビザを申請します。審査には、だいたい1~3週間程度かかるようです。

大きく変わった点:外国人登録証(ARC)
私の時代にはなかった仕組みとして、現在は韓国に入国してから90日以内に、外国人登録証(ARC)を取得することが義務付けられています。

この登録には、オンラインの予約システム「HiKorea」を使って、出入国管理事務所への訪問予約を取る必要があります。手数料は、窓口受け取りで30,000ウォン程度です。

住まいが決まっていないと申請できない書類もあるため、韓国に到着したら、まず住居を確定させることが、今の留学生にとっては最初の重要なステップになっているようです。

강강술래(カンガンスルレ)に隠された、戦の知恵

こうして一枚のビザを手に入れ、留学生活が始まりました。しかし後になって、授業を通して、高麗と日本がかつて外交を拒み合っていた時代があったことを知ることになります。

「韓国伝統文化の理解」の授業で、先生が学生相手に鉄拳の実演を始めたことがありました。軽く叩いているように見えても、当てられた学生が痛がるので、教室はやんやの喝采に包まれました。

その流れで見たのが、강강술래(カンガンスルレ)という踊りの動画でした。武芸なのかどうかは分かりませんでしたが、この踊りは韓国南部地方が発祥だといいます。

なぜかというと、豊臣秀吉軍と戦った李舜臣(イ・スンシン)が、女性たちを山に集めて大声で歌い踊らせ、日本軍に対して「多くの兵士がいる」と錯覚させるために行ったのが起源だそうです。

現在はユネスコ無形文化遺産にも指定されているそうです。本当に、この授業は下手な観光旅行よりも、はるかに充実した見聞が出来ると思う瞬間でした。

モンゴル帝国が、広大な領土を征服できた理由

「東アジアの中の韓国と日本」の授業では、韓国で言う高麗、日本で言う平安・鎌倉時代に話が進みました。その前段として、前回のモンゴル帝国についての続きがありました。なぜモンゴルが、ヨーロッパにまで及ぶ広範囲の国々を征服できたのか、先生は三つの理由を挙げていました。

一つ目は、卓越した軍事・戦闘能力です。騎馬兵士による、一日に300kmも移動できる、当時としては比類のない機動力。加えて、兵を前方から後方まで3部隊、左右に1部隊ずつ配置し、敵を挟み撃ちにする戦術があったといいます。

二つ目は、王の末っ子を後継者(王位継承者)とする制度です。これにより、後継争いが起きにくくなり、政権の寿命が長く保たれたといいます。

三つ目は、侵略した先の宗教を容認したことです。征服した土地の信仰をそのまま認めることで、統治に対する反発を抑えたといいます。

時代が変わり、冷戦時代のアメリカとソ連も、これと似た形で世界に君臨した。では、今はどうか―先生はその先も話していたようでしたが、正直、そこはよく聞き取れませんてした。

高麗と日本、外交を拒んだ顛末

高麗は、日本に友好を求める使節を派遣したことがあったといいます。しかし、日本の中央政権の結論は拒否でした。友好を求める文書に、高麗が上位にあることを示す文字が使われているとか、日付が入っていないとか、様々な理由をつけて、これを拒んだといいます。

その後、両国の間で交流があったのは、商人や貿易業者だけだったそうです。ただし彼らの本当の狙いは、高麗よりも市場の大きい宋(そう)との交易にあったといいます。

高麗王朝は、やがて日本との友好関係の構築をあきらめ、以後、元(モンゴル帝国)の侵攻の時期まで、国としての交流は下火になっていきました。とはいえ、完全に途絶えたわけではなく、大宰府を窓口とした交流は続いていたそうです。直接の窓口となったのは、対馬だったといいます。この様相は、江戸時代、そして明治維新まで、大きくは変わらなかったとのことでした。

考えてみれば、地理的には一番近い国同士なのに、不思議な話です。それが、先生の言うところの「お互いに無視し合っていた」という関係であり、その構図は、今も形を変えて続いているのかもしれない、という話でした。

歴史の先に、今の留学がある

授業の中のこうした脱線話は、教科書だけでは分からない、両国の距離感の歴史を教えてくれるものでした。

かつて高麗と日本が、些細な文書の書式をめぐって外交を拒み合っていた時代があったことを思うと、今こうして一枚のビザを取得するだけで、隣国で1年間学ばせてもらえるということを、改めてありがたく感じます。

手続きは時代とともに変わっても、隣の国で学ぶという扉が、こうして開かれていること自体が、留学の一番のありがたさなのかもしれません。

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