韓国好きの皆さんは韓国の伝統市場を訪れたことがありますか?この記事は韓国留学中、私が足しげく通ったソウルの京東市場(キョンドンシジャン)の魅力についてまとめたものです。
伝統市場には観光地では見られない、人間の生活があり、食べ物の自然な姿を見ることが出来ました。ソウルに行ったら、ぜひ、京東市場まで足を伸ばしてみて下さい
韓国留学して観光地より伝統市場が好きになった理由
韓国留学中、私は数えきれないほどの観光地を訪れました。景福宮の華やかな建築、北村韓屋村の趣ある街並み、明洞の賑わい。どれも美しく、一見の価値がある場所ばかりでした。
けれど、正直に言うと、私が本当に惹きつけられたのは、そうした「観光地」ではありませんでした。何度も何度も、飽きることなく通い続けたのは、下宿の近くにあった京東市場でした。
なぜ、私はこれほどまでに伝統市場に惹かれるのか。それは、そこに「人間の生活」がそのままむき出しの形で存在しているからだと思います。整えられ、演出された観光地では決して感じられない、生きることの生々しさ。それこそが、私が伝統市場を歩くたびに感じた、何とも言えない魅力の正体なのです。
賑わいの中の人間模様
京東市場に足を踏み入れると、まず目に飛び込んでくるのは、色とりどりの傘の下に広がる、人の波でした。カラフルなパラソルが並ぶ通りを、買い物客たちが行き交います。
帽子をかぶったおばあさんが、屋台の品物を熱心に覗き込んでいる。老紳士が、荷物を載せたカートを引きながら、ゆっくりと歩いていく。誰もが皆、目的を持ってそこを歩いていました。観光客のように、ただ景色を眺めるためだけに歩いている人は、ほとんど見当たりません。
売り手と買い手が、声を掛け合いながら値段の交渉をする。荷物を運ぶ人、立ち止まって世間話をする人。そこには、演出されたものではない、生きた人間関係がそのまま広がっていました。観光地であれば、そこにいるのは「見る人」と「見られる人」ですが、ここでは誰もが、生活のためにそこにいる、対等な生活者だったのです。
命がそのままそこにある
魚売り場に差し掛かると、青いビニールシートの上に、氷とともに無造作に並べられた鯖の山がありました。銀色の体をびっしりと並べたその姿は、パック詰めにされてスーパーの棚に並ぶ切り身とはまったく違う、生き物としての存在感を放っていました。
隣の店では、タコが足を絡ませ合うようにして山積みにされ、その脇には手書きの値札が立てられています。少し先の精肉店には、牛肉の塊と、白く丸まった何かが並んでいました。加工され尽くす前の、命そのものの形が、そこにはむき出しのまま置かれていたのです。
正直、最初は少し面食らいました。しかし、しばらく見ているうちに、私はある種の清々しさを感じるようになりました。私たちが普段口にしている肉や魚は、もともとこういう姿をしていたのだということを、これほど正直に見せてくれる場所は、他にありません。加工され、パッケージ化され、命の痕跡を消し去られた食品ばかりを見慣れた目には、この生々しさこそが、むしろ新鮮に映ったのです。
土から出てきたままの姿
野菜売り場に足を運ぶと、また違った驚きが待っていました。日本で見慣れたかぼちゃは、深い緑色をした、手のひらに収まるほどの大きさが一般的です。しかし、京東市場に積み上げられていたのは、茶色い皮をした、ひょうたんのようにくびれた、見たこともないほど大きなかぼちゃでした。それが山のように積み重ねられている光景は、ちょっとした壮観でした。
とうもろこしもまた、私の常識を裏切るものでした。日本では黄色一色のとうもろこしが当たり前ですが、ここに並んでいたのは、紫色や、白と赤紫が入り混じった、まだら模様のとうもろこしたち。「所変われば品変わる」とはよく言ったもので、同じ野菜でも、これほど姿形が違うのかと、素直に驚かされました。
規格化され、形の揃った野菜ばかりを目にしてきた身には、この不揃いで、ごつごつとした、土から出てきたそのままのような野菜たちが、かえって力強く、生命力に満ちているように見えました。
「美人に撮ってね」ー野菜売り場の女性との出会い
そのかぼちゃの山の前で、私は一人の女性に出会いました。野菜を売っていた、おそらく生産者本人と思われる方でした。
カメラを向けると、その方は少し照れたような、それでいて茶目っ気のある表情でこう言いました。「美人に撮ってね」。その一言に、私は思わず笑ってしまいました。
シャッターを切った写真の中の彼女は、日に焼けた顔に深い皺を刻み、決して華やかな装いをしているわけではありませんでした。けれど、私にはその表情が、たしかに美しく見えたのです。
本当の美しさとは、いったい何なのだろう。整った顔立ちや、若さや、洗練された装いだけが、美しさの基準ではないはずです。
長年、大地と向き合い、汗を流しながら生きてきた人の表情には、外見だけでは測れない、内側から滲み出るような魅力があります。あの日、かぼちゃの山を背に微笑んだ彼女の姿は、私にとって、京東市場という場所そのものを象徴する一枚になりました。
観光地にはない「本物」
京東市場を歩き回って、私が改めて実感したのは、「観光地」と「生活の場」の決定的な違いでした。
観光地は、訪れる人を楽しませるために整えられ、演出された場所です。それはそれで一つの価値ですが、そこにあるのは、いわば「見せるための顔」です。一方、伝統市場にあるのは、誰かに見せるためではなく、生きるために積み重ねられてきた、飾らない日常そのものでした。
魚の生々しさ、野菜の不揃いな形、そして「美人に撮ってね」と笑った女性の飾らない表情。そのどれもが、作られたものではなく、そこに確かに存在する「本物」でした。私はその本物に触れるたび、自分もまた、この地球上で生きる一つの生き物なのだという、素朴な実感を得ることができたのです。
観光地を巡ることも、もちろん楽しいものです。けれど、もし本当にその土地の「素顔」に触れたいなら、伝統市場に足を運んでみることを、私は強くおすすめしたいと思います。
まとめ
観光地よりも伝統市場に惹かれる理由を、改めて言葉にしてみました。それは、そこに飾らない人間の生活があり、命の形があり、土の匂いがあるからです。
京東市場で出会った鯖の山も、くびれたかぼちゃも、そして「美人に撮ってね」と笑った女性の表情も、すべてが作られたものではない、本物の生活の断片でした。
留学を終えて日本に戻った今も、あの市場の喧騒と、あの女性の笑顔は、鮮やかに私の記憶に残っています。もしまたソウルを訪れる機会があれば、真っ先に向かいたいのは、やはり華やかな観光地ではなく、あの京東市場なのだと思います。

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