仁川観光で見た日本と清の歴史の痕跡!中華街・銀行建物・鉄道跡を歩いた記憶

韓国好きの皆さんは、仁川国際空港に着いたら仁川の街は素通りして、まずソウルへ直行するのではないでしょうか?仁川は郊外の埋立地は韓国最大の経済自由区域である仁川経済自由区域に指定されており、松島新都市、青羅国際都市などの建設が進められている、新しい韓国の象徴です。

この記事は、前回の江華島の記事で書いた江華島条約により開港した仁川、その歴史の痕跡を実際に歩いてきた旅の記録です。そこには、かつて日本人が一万人住んでいた面影がありました。古い仁川と新しい仁川を見に、ぜひ訪れてみてはいかがですか?

私にとっての仁川

仁川は正式には仁川広域市といい、人口は約300万人でソウル、釜山に次いで韓国で3番目の人口で、ソウル市の衛星都市的な性格が強いところです。沖合には仁川国際空港があり、中国とのつながりが強く、天津、大連、青島、煙台などの都市とフェリーで結ばれています。1883年に港が開かれたときの人口はわずか4,700人あまりで、その当時は済物浦(チェムルポ・さいもっぽ)と呼ばれていたそうです。

私にとって仁川は、留学中(2012~2013)に教室で偶然親しくなった、身長187センチの若い男子学生の家が仁川ということで、昼休みに彼のお母さん手作りのキンパ(海苔巻)をご馳走になったことから、特別な思いがあります。そして、帰国前には、亡き父が戦争中に居たという青島へ仁川港からフェリーで渡ろうとしたが、実現はしなかった思い出の場所です。

中華街・日本と清の租界地

仁川を訪れたのは、江華島に行った半月前の6月の後半でした。ソウルの地下鉄1号線に乗り、終点が仁川でした。降りて、あまり大きくない駅舎を振り返ると、駅の表示板に仁川の文字の下に括弧書きでチャイナタウンと書かれていました。その文字通り、韓国で唯一という仁川の中華街の入り口が駅の真正面にありました。

私はまだお腹がすいてないので、散策することにしました。中華街の右側を回って海岸から中華街に向かって行くと、坂の上がったところに、日本風の街並みが表れました。この付近が19世紀末の日本の租界地だったのかなと思いました。

その街の風景はソウル市内では見られない、木造の2階建が続く日本の横丁のような感じでした。細かく見れば日本の現代の木造とは違いますが、その雰囲気は何とも言えず、日本を醸し出しているのでした。

中華街へ向かって歩くと、日本と清の租界地を分ける階段に出くわしました。花崗岩の石碑には、階段の右側が日本の租界地で、左側が清の租界地であり、1883年から開港されたとありました。そこの階段には、アイスキャンデーを食べてるチャイナドレスを着た幼い女の子と、母親らしき人ともう一人の二人の婦人が座っていました。付近には仁川華僑小学校もあり、中国人も多いのでしょう、中国との関係の深さを感じました。

中華街で昼食

次にいよいよ中華街へ入っていきました。道路の両側に飲食店が並び、人の流れが途切れませんでした。私は混んでない店に入り、ジャージャン麺を食べるつもりでしたが、お腹がすいたので焼飯が食べたくなり、焼飯を食べた後ジャージャン麺も食べたのでした。

どちらもソウル市内で食べたよりおいしかったが、韓国人好みの味のような気がしました。たらふく食べて動けなくなったので、少々休憩後、先ほどの階段から山に登って行ったら、マッカーサーの銅像がありました。それから中華街を離れると景徳鎮の陶器専門店があり、何とジャージャン麺の博物館もありました。

日本風建物の喫茶店 銀行建物

山を下りて再び日本の租界地に入ると、日本風建物の喫茶店があったので入ってみました、家の中の太い梁とむき出しの電球が昔の日本の建物そのものでした。アイスアメリカ―ノが5,000ウォンと観光地なのでさすがに高いと思いました。女性と子供は韓国名物팥빙수(パッピンス、あずき餅の入った氷)を食べている人が多いようでした。

さらに日本の租界地を行くと昔の日本の建物が次々と現れました。旧第一銀行仁川支店は今は博物館になっていて、旧十八銀行仁川支店、旧五十八銀行仁川支店、と続き、いずれも堂々たる建物で、仁川で商業活動する日本人の姿が目に浮かびました。

月尾島公園

それから近くの月尾島(월미도 ウォルミド)に公園があるというので行ってみることにしました。ここも歩いて島の山の頂上まで行ってみました。途中、바위취(パウィチェ、シロヤマギク)という白い花がきれいに咲いていました。

頂上には19世紀末に造られた礼砲を放つ為の大砲がありました。それから展望台に登り海を眺め、疲れた体をビールで潤しました。窓には世界各地までの距離が書いてあり、東京までは1.186㎞と書いてありました。

帰りの仁川駅では、ここが韓国最初の鉄道誕生の駅という、列車の形をした石碑が建っていて、碑文には、ソウルまで1時間半となり、仁川がソウルの生活圏に組み込まれたと書いてありました。

仁川で見た日本の租界地の痕跡は、韓国時代劇で描かれる朝鮮末期の歴史と重なります。ドラマで見た時代の空気が、この街にはまだ残っていました。

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