韓国留学の自転車散策で出会った浅川巧―朝鮮の土になった日本人

韓国好きの皆さんは、ソウル市内を自転車で巡ったことがありますか?この記事は韓国留学した私が、ソウル市内を自転車で散策している時、偶然写真に撮った看板が、浅川巧と深い関係があることに気がついたという記事です。

日本の統治時代に、朝鮮人から敬愛された日本人がいたということは、大きな驚きでした。そして今も日韓交流の橋わたし役として、巧の生き方が語られ続けているといいます。

韓国留学した時、自転車で見つけた「国立山林科学院」

韓国留学中、私は自転車でソウルの街を走り回るのが日課でした。ある日、清凉里(チョンニャンニ)のあたりを走っていると、緑豊かな敷地の入り口に、こんな看板が立っているのが目に留まりました。

「국립산림과학원(国立山林科学院)」
木々に囲まれた落ち着いた雰囲気に惹かれ、思わず自転車を停めて写真を一枚撮りました。その時は、ただの研究機関だろうと思い、そのまま通り過ぎてしまいました。

しかし後になって調べてみると、この場所には、日本統治時代からの深い歴史が眠っていたことがわかったのです。1913年に発足した朝鮮総督府の林業試験所は、1919年、まさにこの清凉里・洪陵(ホンヌン 閔妃の墓)の地に移転してきていました。そして、そこで働いていた一人の日本人技師の名前を思い出した時、私は思わず息を呑みました。

浅川巧(あさかわ たくみ)。日本ではほとんど知られていない、しかし韓国で今もなお敬愛され続けている日本人です。

浅川巧とは誰か

浅川巧は1891年、山梨県に生まれました。幼い頃から花や木を愛し、県立農林学校を卒業後、秋田県大館営林署に勤務していました。転機が訪れたのは1914年、朝鮮に渡っていた兄・伯教(のりたか)を追って、23歳で朝鮮総督府の林業試験所に職を得たことでした。

当時の朝鮮の山々は、長年の伐採によって荒廃が進んでいました。巧に与えられた使命は、朝鮮の風土に合った育苗法を確立し、山を緑によみがえらせることでした。彼は朝鮮五葉松の苗の育成期間を、それまでの2年から1年へと短縮する画期的な方法を編み出すなど、目覚ましい成果を上げていきます。今の韓国の人工林の実に37%が、巧の開発した技術によるものだと言われているほどです。

しかし、巧が今も語り継がれる理由は、林業技師としての功績だけではありませんでした。彼は朝鮮語を習得し、韓服を身にまとい、朝鮮の家屋に暮らし、朝鮮の人々と同じ目線で生きようとしました。給料をつぎ込んで貧しい学生に奨学金を与え、自分が飢えていても、より困窮した同僚や労働者を助けたといいます。植民地支配という時代の中で、支配する側とされる側という関係を超えて、一人の人間として朝鮮の人々と向き合おうとした人物、それが浅川巧でした。

柳宗悦との出会いと朝鮮民族美術館

林業技師として山を駆け巡る中で、巧は自然と朝鮮の人々の暮らしに触れる機会を得ていきました。種苗のための種子を集めて朝鮮各地を歩くうち、彼の目に留まったのが、当時ほとんど顧みられることのなかった朝鮮の陶磁器や木工品、家具といった民芸品でした。

美術教師でもあった兄・伯教とともに、巧はこれらの品々に「用の美」を見出し、収集と研究を重ねていきます。そんな二人の活動に深く共鳴したのが、思想家であり美学者でもあった柳宗悦(やなぎ むねよし)でした。柳は、後に日本で民芸運動を起こす人物として知られていますが、その原点には、浅川兄弟との出会いがあったといわれています。

柳は浅川兄弟を高く評価し、深い信頼を寄せていました。3人の協力によって、1924年、景福宮の中に「朝鮮民族美術館」が設立されます。誰にも顧みられなかった朝鮮の日用品の中に、美しさと文化的価値を見出し、後世に残そうとした、この美術館の存在自体が、巧たちの朝鮮への深い愛情の証でした。この美術館は、現在の国立民俗博物館へと引き継がれています。

柳は後年、巧についてこう書き残しています。「私はわけても彼を人間として尊敬した。私は彼ぐらい道徳的誠実さをもった人を他に知らない」。国境や立場を超えた、この二人の友情もまた、浅川巧という人物の生き方を物語る、大切な一面だったのです。

「朝鮮の土になる」という遺言

1931年4月2日、浅川巧は急性肺炎のため、40歳の若さでこの世を去りました。
彼の遺言は、周囲を驚かせるものでした。日本に帰らず、韓国の伝統的な葬礼に従って、朝鮮の地に埋葬してほしい、というものだったのです。

その願いの通り、巧は清凉里に葬られました。葬儀の日、多くの朝鮮人が集まり、弔意を表すため、我先にとその棺を担ごうとしたといいます。日本による植民地支配のもと、朝鮮人への蔑視や差別が当然のように行われていた時代に、一人の日本人の死を、これほどまでに悼んだ人々がいたという事実は、巧がどれほど深く朝鮮の人々に慕われていたかを物語っています。

巧は、自分が飢えていても、より貧しい朝鮮人の同僚や労働者を助け、学校に通えない子供たちには奨学金を与えていました。そのため、いざ自分が世を去った時には、葬儀代さえ残されていなかったといいます。財を成すためではなく、目の前の人々のために生きた、その生き方そのものが、この葬儀の光景に凝縮されていたのかもしれません。

今も守られ続ける墓

清凉里に葬られた巧の墓は、その後、ソウル郊外の忘憂里(マンウリ)共同墓地へと移されました。
驚くべきことに、この墓は今もなお、韓国の人々の手によって大切に守られ続けています。1966年、巧を直接知らない世代の林業試験場の韓国人職員たちが寄付を募り、墓の傍らに記念碑を建てました。そこにはハングルで、こう刻まれています。

「韓国の山と民芸を愛し、韓国人の心の中に生きた日本人、ここ韓国の土となる」
日本人の顕彰碑が韓国に建てられること自体、極めて異例なことだといいます。それも、支配した側の人間としてではなく、一人の友人として、一人の恩人として、世代を超えて語り継がれてきた結果でした。

命日である4月2日前後には、今も日韓両国の関係者による追悼式が営まれています。近年の式典にも、韓国の元外交官や文化財庁長といった要人が参列し、両国の未来への橋渡し役として、巧の生き方が語られ続けているといいます。政治的に難しい局面を迎えることもある日韓関係の中で、巧の墓は今も静かに、両国の人々を結びつける場所であり続けているのです。

自転車で走った清凉里の記憶と重ねて

あの日、自転車を停めて何気なく写真に収めた「国立山林科学院」の看板。まさかそこが、浅川巧が朝鮮の山々の未来を思い描きながら働いていた、まさにその場所だったとは、当時の私は知る由もありませんでした。

私が留学中に走り回っていたソウルの街には、数えきれないほどの歴史が、幾層にも積み重なっています。何気なく通り過ぎていた景色の一つ一つに、こうして掘り起こしてみると、驚くほど豊かな物語が眠っているのです。

もしあの時、看板の由来を知っていたなら、私はもっと長い時間、あの場所に佇んでいたかもしれません。今度ソウルを訪れる機会があれば、改めてあの看板の前に立ち、100年以上前、そこで朝鮮の山を思い、朝鮮の人々を愛した一人の日本人がいたことを、静かに思い起こしてみたいと思います。

まとめ

自転車で通りかかっただけの、何の変哲もない研究機関の看板。しかしその奥には、朝鮮の山を緑によみがえらせ、朝鮮の人々を同じ人間として愛し、最後は「韓国の土になる」ことを望んだ、一人の日本人の生涯が眠っていました。

浅川巧という名前は、日本ではほとんど知られていません。それでも、彼が生きた証は、今も忘憂里の墓に、そして清凉里の林業試験場の跡地に、静かに息づいています。

シニアになってから始めた韓国留学。以前から名前を知っていた浅川巧でしたが、まさか自分が自転車で走り回っていたあの場所が、彼の働いていた職場そのものだったとは、思いもしませんでした。

知識として知っていたはずの人物と、自分の足で歩いた景色とが、こうして思いがけず重なり合う瞬間があることを、教えてくれた出来事でした。

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